これは「よもやま話」です。
簡単なソフトを表すものとして「ぬりえソフト」という言葉を思いつきました。
「ぬりえ」とは、幼児がよくやる、線だけの絵の枠の中に色を塗っていくあれのことです。勘の良い方は私が何を書こうとしているのか、もうわかってしまったと思いますが。
とにかくソフトは難しい、パソコンは難しい、簡単なものじゃなくては。誰もがそう思います。私もそう思ってます。何も好き好んで難しくしているわけではないのです。
「ぬりえ」は色を選択して枠線の中を塗るだけで誰でもそこそこの絵が描けますが、これは素晴らしいことでしょうか。これで十分でしょうか。大抵の人は否定的な意見を持つと思います。なぜでしょう?
「ぬりえ」は簡単に絵が描けるというメリットと引き換えに自由度が大きく制限されるからです。あらかじめ描かれた枠線によって絵のおおよそが決定されてしまい、それを変更することはできません。「絵を描きたい」と思う人は、当たり前ですが、こんなものは使いません。勉強し練習して真っ白のキャンバスに向かうと思います。
「簡単さ」とはこういうものです。大して迷うこともなく、勉強する必要もなく、そこそこの成果を出すことができますが、その一方であらかじめ与えられた枠をはみ出すことは決してできないのです。
これに対して、最大限の自由度を持つものがプログラミング言語というものです。既存のソフトに満足できない方は日曜プログラマとして自らソフトを作ることもあるでしょう。まるで「おしきせの絵筆や色チューブやキャンバスなんぞでは俺の芸術は表現できない。画材から自分で作るぞ!」というようなものでしょうか。
絵の場合と同様に、ソフトウェア利用の形態には、自由度の大きい低レベルから、自由度の極めて小さい高レベルまでがあるわけです。
そしてそれは、ソフトウェアのみならずすべての物事の本質であって変更することは絶対にできません。つまり、「自由度の高いものは難しい」「簡単なものは自由度が低い」ということです。
当たり前のことです。二つの選択肢しか無いのであれば、どちらかを選択すればよいことですが、あなたには二通りの自由しかありません。百通りの選択肢があるなら大きな自由がありますが、どれが優れているか調べたり迷ったりして決定には時間がかかるでしょう。
こんな当たり前のことであるのに、ことソフトウェアに関しては忘れ去られているのです。「簡単な方がいい」と。これは自ら「私に自由は必要ありません」と宣言していることと同じです。あるいはやはり、ソフトウェアを魔法か何かの類と誤解しているのでしょう。
難しいソフトというのは無駄に難しいわけではありませんし、わざと難しくしているわけでもありません。エンジニアは必死でそれを作っているわけです。これはユーザに対して最大限の自由度を与えようとしているからです。
「簡単なソフト」の作成者は、余計な枝葉を切り捨てます。「ユーザはここでこういうものが欲しいかもしれない」と思っても、「それは100人に一人位だろう」と切り捨てます。こうやって99人がとりあえず満足するソフトを作るわけです。もちろんこれも判断としては正しいのです。ユーザが1万人いて、全員が満足できるソフトなどありえません。最小の労力でできるだけ最大限の人を対象にできればよいのです。
使う人が一人、あるいは一つの会社だけであるならば、その方々が満足すればよいのですから自由度をかなり低くすることができ、結果的に簡単さを向上させることができるでしょう。ただ、このソフトは非常に高くつきます。他には売り物にならないのですから当然です。
また、こういったソフトは初期費用だけではなく、保持していくにも多額のお金がかかります。なぜでしょうか?ビジネスのやり方を変えない、などということはないからです。社会や環境の変化に連れてビジネスも様々に試行錯誤し、その形態を変えていく必要がありますが、簡単なソフトを簡単なままにしておくには、その度に手を入れていかなくてはいけません。
簡単なソフトは自由度が無いのです。つまり、ビジネスの変化に対応する柔軟性もないのです。
現代の画材屋さんで売られている画材道具というのは、どうしてあのような形なのでしょうか?毛と棒を別々ではなく絵筆を、色の原料ではなく色チューブを、「ぬりえ」ではなくキャンバスを。この辺が「ちょうどいい」塩梅なのでしょう、そこそこ簡単でそこそこ自由度が高いと。
ただ、これまで絵など描いたことがなかった人には難しすぎる道具なのです。